きらきらEvery(仮)

書き留めたいことを書く

『この世界の片隅に』感想

今さらになってしまったけど、『この世界の片隅に』を見てきました。フューちゃん*1としては、Makuake先輩であるところの片隅先輩は見ねばと思っていたんですよね。ということで本当に今さらですが初見の感想を。いつものごとく大したことは書いていません。ネタバレは少しあります。

 

 前情報で言われていたことですが、本当に情報量が多い。描くところはたっぷりと尺を取って描いていますが、序盤とか「○年○月」という表記にて、どんどん年月が経っていくのがわかる。このあたり、原作の配分はどうなってるんだろう?と思いました。

テレビやwebでの特集では「とにかく当時の再現性が高い」ということが取り上げられていて、例えば冒頭ですずさんがお使い(って言っていいのかな?)で広島の街に行くシーン。お店の前で呼び込みをしている店員さんや、道を行く人など、モデルがあるというほどこだわって描かれた、ということは知っていました。だけどこのシーンでは同時に、すずさんの空想の世界が描かれ、「?」と思ってる間に、これが妹に面白おかしく聞かせた、すずさんの綴った物語だということがわかります。(お使いに行ったことは事実だろうけど、だいぶファンタジーめいて脚色されている)私の中ではこれがだいぶ、魔法のようにかかっていて、それはラストシーンまで効いていました。

この現実と空想を行き交うような描写は度々挿入され、例えばお盆に行った祖母の家で、すずさんだけが見た座敷わらし。この描写だけだと、多感な少女時代にした少し不思議な経験、というだけで済むのですが、物語の中盤頃に「もしかしてこの人は、あの時の座敷わらしだったのでは?」と思うような人物が登場します。けれど、はっきりとした答えは提示されません。あの時の座敷わらしだったのかもしれないし、たまたま似たような境遇の、別人なのかもしれない。そんな境界上のバランスで物語は進むものだから、広島に原爆が落とされた後の公民館(みたいな建物)が映されたときも、私はそれが「空想側」の描写だと思ったんですよね。公民館の壁により掛かる、亡霊みたいな兵隊さんの姿。だって誰も、その兵隊さんのことに気を留める描写がなかったんですもん。だから終盤で、あの兵隊さんが「現実側」の存在で、更には…ということを知った時は、なんとも言えない気持ちになりました。

この「現実」と「空想」関連の描写で、一番衝撃を受けたのは、こちらも終盤に描かれる、母と子のシーン。映像がショッキングなのを差し引いても、いきなりの場面転換に加え、これまでに境界の表現を繰り返えされていたため、もしかしたら呉に留まったすずさんは「空想」で、広島に戻ってしまい、そこで被爆したこの女性こそが、「現実」のすずさんなんだろうか…と思い、とてもドキドキしました。今思えば、その女性の顔がすずさんっぽかったかどうかも思い出せないのですが(はっきりと顔、描かれていたかなあ)ああいう描き方をしたのには、なんらかの意味があるような気がしています。まだわからないけど。

 

他に印象に残ったことと言えば、思ったよりもずっと、恋愛描写が多いな?!ということでした。ともすればキャラクター的・記号的になりそうな「すずさん」という一人の女性に、熱や、血や、肉体があるんだなあということを、恋愛という軸からも感じました。納屋のシーンはドキドキしたよ。

 

この作品を「面白い」っていうのはちょっと違う気がするし(コミカルなシーンはたくさんあって、そういう意味では「面白い」)、「見るべき」っていうのも押し付けがましい気がするし、結局は「『この世界の片隅に』はいいぞ」って言うしかない…。「○○はいいぞ」ってワード、押し付けがましくもなく、愛情と自己完結感にあふれていて、使いやすくてとっても良いなあ。

*1:少年ハリウッドファンのこと