きらきらEvery(仮)

書き留めたいことを書く

2017.7.9 KING OF PRISM-PRIDE the HERO-舞台挨拶@T・ジョイ博多

菱田監督、依田P、西Pが登壇された舞台挨拶に参加してきました。覚書をまとめておきます。10:20の回と12:30の回、ごっちゃになってますが。

 

 

『この世界の片隅に』感想

今さらになってしまったけど、『この世界の片隅に』を見てきました。フューちゃん*1としては、Makuake先輩であるところの片隅先輩は見ねばと思っていたんですよね。ということで本当に今さらですが初見の感想を。いつものごとく大したことは書いていません。ネタバレは少しあります。

 

 前情報で言われていたことですが、本当に情報量が多い。描くところはたっぷりと尺を取って描いていますが、序盤とか「○年○月」という表記にて、どんどん年月が経っていくのがわかる。このあたり、原作の配分はどうなってるんだろう?と思いました。

テレビやwebでの特集では「とにかく当時の再現性が高い」ということが取り上げられていて、例えば冒頭ですずさんがお使い(って言っていいのかな?)で広島の街に行くシーン。お店の前で呼び込みをしている店員さんや、道を行く人など、モデルがあるというほどこだわって描かれた、ということは知っていました。だけどこのシーンでは同時に、すずさんの空想の世界が描かれ、「?」と思ってる間に、これが妹に面白おかしく聞かせた、すずさんの綴った物語だということがわかります。(お使いに行ったことは事実だろうけど、だいぶファンタジーめいて脚色されている)私の中ではこれがだいぶ、魔法のようにかかっていて、それはラストシーンまで効いていました。

この現実と空想を行き交うような描写は度々挿入され、例えばお盆に行った祖母の家で、すずさんだけが見た座敷わらし。この描写だけだと、多感な少女時代にした少し不思議な経験、というだけで済むのですが、物語の中盤頃に「もしかしてこの人は、あの時の座敷わらしだったのでは?」と思うような人物が登場します。けれど、はっきりとした答えは提示されません。あの時の座敷わらしだったのかもしれないし、たまたま似たような境遇の、別人なのかもしれない。そんな境界上のバランスで物語は進むものだから、広島に原爆が落とされた後の公民館(みたいな建物)が映されたときも、私はそれが「空想側」の描写だと思ったんですよね。公民館の壁により掛かる、亡霊みたいな兵隊さんの姿。だって誰も、その兵隊さんのことに気を留める描写がなかったんですもん。だから終盤で、あの兵隊さんが「現実側」の存在で、更には…ということを知った時は、なんとも言えない気持ちになりました。

この「現実」と「空想」関連の描写で、一番衝撃を受けたのは、こちらも終盤に描かれる、母と子のシーン。映像がショッキングなのを差し引いても、いきなりの場面転換に加え、これまでに境界の表現を繰り返えされていたため、もしかしたら呉に留まったすずさんは「空想」で、広島に戻ってしまい、そこで被爆したこの女性こそが、「現実」のすずさんなんだろうか…と思い、とてもドキドキしました。今思えば、その女性の顔がすずさんっぽかったかどうかも思い出せないのですが(はっきりと顔、描かれていたかなあ)ああいう描き方をしたのには、なんらかの意味があるような気がしています。まだわからないけど。

 

他に印象に残ったことと言えば、思ったよりもずっと、恋愛描写が多いな?!ということでした。ともすればキャラクター的・記号的になりそうな「すずさん」という一人の女性に、熱や、血や、肉体があるんだなあということを、恋愛という軸からも感じました。納屋のシーンはドキドキしたよ。

 

この作品を「面白い」っていうのはちょっと違う気がするし(コミカルなシーンはたくさんあって、そういう意味では「面白い」)、「見るべき」っていうのも押し付けがましい気がするし、結局は「『この世界の片隅に』はいいぞ」って言うしかない…。「○○はいいぞ」ってワード、押し付けがましくもなく、愛情と自己完結感にあふれていて、使いやすくてとっても良いなあ。

*1:少年ハリウッドファンのこと

名も無き一人のファンでありたい私たち と ドリフェス!

昨日の私と友人Sちゃんの会話。

私「そういえばこの前のAbemaTVであった、どりへす一挙放送見てくれた?」

S「見た!おもしろかった」

私「アプリも無料で出来るからやってくれよ」

S「アプリは怖いからな…*1でもやってみようかな。ところでゲームの中のプレーヤーってどういう立ち位置なん?」

私「ただのファン」

S「えっ、プロデューサーとか、マネージャーとかじゃなく…?」

私「そう、どりへすのライブでみんながカード飛ばしてるやん?あれが私達」

S「ええっ…最高やん…

 

私たちはちょっと拗らせているので、もう「アイドル」と「自分」を同等の存在として認識出来ないし、認識されたくないのだ。彼らのステージを照らすサイリウムの1本になりたいのだ。私はモブおじさんを飼っているので、たまにモブおじさんとしてアイドルと接したいなあという妄想をすることもあるけど、Sちゃんは完全にジャパニーズ・ニンジャだ。絶対に認識されたくないらしい。Sちゃんの話はすごく面白いので、今度別にまとめてみたい(了承いただけたら)。

そんなこんなで、ただのファンとしてアイドルを純粋に応援できる喜びを噛み締めながら、ドリフェス!を応援したいと思います。 まだ中の人については全然しらないので、そのうち知っていきたい。あと筐体も遊びたい。

2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』ミニアルバム「Welcome To D-Four Production」

2.5次元アイドル応援プロジェクト『ドリフェス!』ミニアルバム「Welcome To D-Four Production」

 

 

ただのファンである、といえば、少年ハリウッド26話。それまでメンバーの成長や葛藤の軌跡を「活動記録」として見てきた私はすっかり保護者気分でいたのですが、それが「少年ハリウッドというアイドル」と「一介のファンであるわたし」に分断されたのが、あの26話だったのです。キラの紹介でキラキラのエフェクトはなく、多分心の中で、恒例のポエムを披露しているはずのカケルくんの声も聞こえず、ただ、アイドルとファンがそこにいた。アイドルアニメで、こんなに幸せなことがありますか?!  アイドルと恋愛したいわけでも、一緒に高みを目指したいわけでもなく、ただ好きな人を応援できる喜びをくれるアイドル作品にありがとう! クラウドファンディングもありがとう! ことしのクリスマスも彼らと過ごせるありがとう~~~!!


#26「HOLLY STAGE FOR YOU」ダイジェスト

*1:Sちゃんは、というかSちゃん「も」アイドリッシュセブンというアプリゲームにハマって絶賛課金中

ユーリ!!! on ICE 10話(までの)感想

10話というか、10話までの感想まとめ。といっても、この作品に対する本質的なところは、長谷川さより嬢のこのエントリを読んだときに、もう腑に落ちたし、これ以上私が言葉を重ねて言うことでもないのだけど。

mortal-morgue.hatenablog.com

タイトルの「ユーリ」と、二人のユーリ。この作品が始まった時、そこにヴィクトルを加えた3人を軸にして描かれる話だと思っていたし、実際4話まではそんな感じだったとも思う。(もちろん勇利の周囲の人間関係は描かれていたので、振り返るとそうでもなかったな、とは思うけど) けれど、思いのほか、物語は「外へ」と広がっていった。舞台が海外に移ったからとかそういう意味ではなく、今まで伏し目がちだった視線を上に向ければ、勇利を取り巻く世界は広く、鮮やかで、豊かなものだったと気付かされた。

勇利自身の描かれ方も、その進行とシンクロしていたと思う。GPファイナルのボロボロな結果から始まり、失意の底にあった勇利の主観で象られた「勝生勇利」は頼りなく、色あせて見えた。だが5話にて、後輩にあたる若手ホープ・南が登場することによって、私たちは勇利がただの頼りない青年なのではなく、日本を代表する選手であり、目標とされる存在であることを思い知る。その後も彼と接点を持つ登場人物が現れることによって、「勝生勇利」は多角的に照らされ、彼の一人称では知ることのできなかった、彼の存在を浮き彫りにした。

10話はその最たるもので、ヴィクトルのモノローグで綴られる。不真面目な視聴者なので、各話1度きりしか見ていないために見落としている可能性が大なのだけど、どうしてヴィクトルが勇利の前にコーチとして現れたのか。もちろんきっかけはあの動画だったにしても、それだけにしては弱いとずっと思っていた。それがこの10話で、すとんと得心がいった。

まるで神の前で誓う儀式のような、リングの交換が衝撃的だった10話だけれども、もちろんそれだけではない、とんでもない情報量だったと思う。2人の指のリングを見て、冷やかしこそすれ、誰もそれを非難することはなかった。原案者の1人である久保ミツロウ氏は、このようなツイートもしている。

 ユーリ!!!で描かれるのはいろんな「愛」だ。名前のつけられる愛、名前のない愛…当初、勇利とヴィクトルの関係も、名前のつけられない類の「愛」なのかな、と思ったけど、10話を見て「恋愛」という名前を付けてもいい、そう思った。このあたりについてはもう少しゆっくりと考えたい。何にせよ、「愛」の物語なのだろう。そして、この世界では「愛」のために戦うことはない。愛のために傷つくことはあるとしても、愛を貫くために戦いを強いるような世界ではない。(ここで言う「戦い」とは、恋愛におけるライバルとの争い等ではなく、「世間」「世界」との戦いのことです)

美しい風景描写や、現実のツールを描くことによって、丁寧に「私たち」と「作品」の世界観を繋げている中で、最大のフィクションがここにあった。

残り話数も少なくなり、どのようなフィナーレを迎えるのかわからないけれど、きっと多幸感にあふれたものになるんじゃないかなあ、と想像している。